フルートソナタ 第5番 ハ長調  Op.83 Nr.2

第一楽章
249小節より成る(繰り返し記号により30小節より86小節まで譜記されている場合があるが、演奏上は必繰り返さねばならない)不完全なソナタ形式とも見られ、ソナタ形式の範疇にあると考えられる。

序奏部 最初~18小節
主題提示部 30小節~86小節 この部分を繰り返す事により、そのまま展開部への
序の役割を呆し、リピート後の87小節以降につなぐ

展開部 86小節~124小節
再現部 130小節~192小節

序奏部はAdagioの劇的な暗い不安定な動きのピアノで始まる。この後に続くフルートの感動に充ちた、単純な音の動きの中に、充実感、緊張感を徐々に貯え、中音域のGのトリルより、Gまで登りつめ、更に12小節の軽妙なリズムと流麗な旋律、当時、ヨーロッパ全域で圧倒的な人気を得ていたロッシーニのオペラを髣髴とさせる。同時にEsのシンコペーションの繰り返しを頂点にして、クーラウの底深い悲しみが象徴されている。そして、それは、この曲が最後まで長調で、彼の曲にはめずらしく明るさを装ってはいて、当時のイタリアオペラ風の最大限の喜び、最大限の哀しみを素直に吐露する方法は用いたにせよ、彼の本質的な哀しみを癒す術は、どこにも見当たらないという事を強く印象付ける序奏部である。

そんな深刻さと打って代って軽やかなAnegoの経過句により第一主題が導かれる。
このテーマは、ピアノ、フルートで数回素直に繰り返された後、55小節以降の第ニテーマを呼び込む。このモチーフはリズムが変化しながら精神的高揚を余儀なくしていく。
しかも、この第ニテーマは多くの場合、ユニゾンの重音により奏され、音量の効果もあいまって、大きな説得力を聞く人に与える。

展開部は第ニテーマの独壇場である。97小節より112小節に至る間、フルートの下降形のリズムと
ピアノの上昇の交互のやり取りが、綾織りの様に級密に計算されている。短い展開部とはいえ、クーラウの作曲技法の確かさを認識させられる部分でもある。

再現部は129小節以降、第一テーマがそのままの形で再現され、第ニテーマも2度目以降は、ひたすらCODAに向って突き進むしかない。人が人として生を受けたなら、一時でも心臓を止めるわけにはいかない様に、自身の歩みを止める事は出来ない。人生は好むと好まざるとにかかわらず、大きな流れに逆らう事は出来ない。であるならば、流れに翻弄される事も一つの人生のあり方ではなかろうか。

第二楽章
作品83の他の2つの作品と大きく異なっているところは、この二楽章の規模の小さい事にある。この素直な旋律は終始一貫してフルー卜、ピアノのパートに交互に現れ47小節の憩いの空間を提供してくれる。

それはあたかも、リンビー(クーラウが大きな家を建てたコベンハーゲン近郊の村)の野や湖近くで愛犬と散歩しているクーラウの姿が、40才にしてやっと手に入れた家族との生活、リンビーの人々との交流など、ただ単に家を手に入れたという物質的な満足感のみならず、真にデンマーク人としての生活を手に入れたのだという充ち足りた平穏さが、この楽章を貫いている様に思える。

第三楽章
Anegro vivaceで始まるロンドは、前楽章のモチーフを多く用いている。二楽章のリズムが深い呼吸に対して行われていたのに対し、この楽章のリズムはもっと活動的で躍動感にあふれている。

52小節目からと75小節日前後、316小節あたりで、第一楽章の第ニテーマの回想が見られる。この部分においても極めて単純なスケールだけで充ち足りた旋律を創り上げる職人技は、クーラウならではのものである。
208小節より転調して262小節の間は例によつてクーラウの秘められた精神世界への彷徨である。8分の6拍子の大部分が全音符で処理されている中にあり、見え隠れする3連符の動き、この3連符は馬の軽速足の動きを連想させる。
ただこの場面には、他のフルートソナタの同様な箇所と違い、健康的な、活発な、心おどる様な楽しい雰囲気しか出せない。この事もあってか、クーラウのフルートソナタにはめずらしく、明るく、軽快な作品としての魅力がある。
しかし、クーラウの作品は、“人生は自分で切り開いていくものだ”など自身の努力と誠意でどうにか成るという様なオメデタイ考え方の持ち主には理解する事が出来ない。クーラウの得意とするところは、自身との戦いだ。それは、彼のすさまじい孤独感である。その孤独を根底に、人間には種々な面を持っている。その様々な面を持つ自身を肯定し、受け入れ、人生を歩まねばならない。それは絶えまなく繰り返され、自身の内なる孤独を癒すことが不可能であると解っていても立ち止まるわけにはいかない。このたつた50小節足らずの別世界、この場所があることにより、他人の推し量る事の出来ない辛さ、哀しさから逃れ、あるいは生きる希望として、心の安全弁としての挿入楽節がどんなにか魂の救済となっていることかを、逆説的に教えてくれる曲でもある。

解説 田上紳

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