フルートソナタ ト長調 Op.69

フルートソナタ作品69は、1826年2番目のフルートソナタとして作曲された。フルートソナタこそは、彼の最高の作品群で次代にも引き継いで演奏されていく名曲揃いである。

中でもこの作品69は作品規模こそ小さいものの、この曲が彼の最高傑作の一つだと主張する人達も多い。何故かというとフルートソナタ中、数少ない長調の曲で、彼の作品らしからぬ明るさの目立つ為でもある。

第一楽章は明るく伸びやかな動きで提示される。次にクーラウのフルートソナタがいかにピアノパートが重要な役割を担つているかを最初に示す。クーラウのピアニストとしての作曲の見せ所でもある。

第二楽章は彼のソナタの緩徐楽章としてはかなり速く、小さなカデンツを持ち、シューベルトのリートを想い起こさせる。短い楽曲の中で、一つ一つのフレーズはゆったりと、豊かな響きで奏し切る事を要求され、少年から青年に成長するごく短い一瞬の輝きの変化のように転調する手法は悪魔的とも言える。青春とは虚妄の時間である。生理的な時間のそれですら、「あった」という形でしか捉えられない。「私は若かった」のであり、実際に若い時、すなわち、肉体の充実の極みにある20才前後には、完全な形でそれを確認し、表現するには『若すぎる』、その人生という悲喜劇の中で、青春は瞬く間に老いる。わずかにシューベルトの様な夭折の天才が記しとどめた青春は、死と背中合わせではじめて輝いた時間であつた。だがクーラウはシューベルトとは違う。クーラウは、いつも自分が歩んできた過去、とやがて迎える死との線上に自身を置き、作品を完成して来た。しかし、この作品69に関する限り、違っている。一つのフレーズごとに、生に対する喜びが次から次へと並べられている。その現象としての青春が何に渇き、何に刺し違えようとしているかを確認することは、単に青年期にある作曲者の間題にとどまるものではないことは明らかである。差詰めこのソナタに名前を付けるとしたら、気恥ずかしい気がするが「青春」とか「少年」の語を想い起こさずにいられない。

第三楽章は軽快なテンポで演奏されるロンドより成る。この楽章は短いながらも非常によく出来た楽章で、クーラウの才気を遺憾なく発揮している。クーラウはフーガやカノンを好み、その研究や論文もものにしていた。その得意とするところの、103小節から始まるフガートは、この曲の自眉でもあり、この部分の為に一楽章、二楽章、それと三楽章の100小節余りが長い序奏に過ぎない様にさえ感じる。三声のパートが重なり、次第に音量を増した後、一気に頂点に達し、華やかにこの曲の幕を閉じる。蛇足だが、クーラウのフルートソナタ作品110の3の一楽章にも同様のフガートを用いている。ここにも、ベートーヴェンの後期のピアノソナタの影響を見ることが出来る。

解説 田上紳

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