フルートソナタ 変ホ長調 Op.64

クーラウのフルートソナタとしての最初のこの作品は、1825年に作曲され、変奏曲の最高峰で
ある作品63「オイリアンテによる変奏曲」や、劇場音楽「Lulu」作品65など大曲が同時期に作
曲されている。

第一楽章冒頭のピアノの力強い出だしは、人生とはこれ程までにがっちりとした枠にはめられ、こうあらねばならぬという方向づけをされているかの印象さえ抱かざるを得ない。


第一主題はフルートでは考えられない低い音より始まり、そのことの代償でもあるかの様に2オ
クターブでの跳躍があり、やっとフルートという楽器の音域を満足させる。第一楽章全体に流れ
る鬱屈した気分は、凝縮したエネルギーを内に秘め、やがて来たるであろう人生の荒波を超える
べく内蔵し続ける。第一テーマ、第ニテーマとも長音階の上に成り立つが、クーラウ特有の三連
符の動き、十六分音符の揺れ動く様は、展開部でより繊細な動きと明瞭な決然たるリズム感など
により、大自然における一匹の小虫を連想させる。それは自身のことに置き換えられる。昼下が
りの明るい太陽の下、広い自然の、中のほんの小さな葉先で飛び交うたった一匹の小虫、それが
自身ともとれるし、それを冷めた眼で見つめる自身。明るい木洩れ日の陽と陰の揺らぎが、心の
不満足感、常に自分自身の存在の不確かさ、自身の居場所がここにあるのかという疑間が、いつ
もクーラウの作り上げる世界には弱い人間の憂鬱として漂っている。その陽の翳りは続く楽章を予見する。


第二楽章はデンマークのフォークソングを素材にしたメロディで、ゆったりと憂いのある哀しみ
の旋律である。これはクーラウが劇音楽「妖精の丘」Op.100の中で、ロマンス(Dervanker en ridder)第二幕でエリザベートによって歌われる7曲目の「さまよえる騎士」の為に用いたのと同じである。この楽章でクーラウはピアノパートの充実を配る為に様々な工夫を凝らす。


クーラウが変奏曲で楽章を成り立たせている重要な作品に、フルートニ重奏Op.120のNo.2の第二楽章に、やはり「Elverh②j」の第二幕、カーレンとモーウンスにより歌われるRomanceがある。フルートソナタでは、Op.83,No.1ではスウェーデン民謡が取り入れられ、第二楽章全体が変奏曲で形作られている。変奏曲という分野は彼の重要な作曲形式の一つで、フルートとピアノの為の変奏曲として、フルートとピアノの為の変奏曲として、Op.63、Op.94、Op.98、Op.99、Op.101、Op.104、Op.105の他小品としてOp.10の12の変奏曲などが挙げられる。この様に、クーラウの変奏曲はそれだけで一つの分類を成せる程重要であるが故、ソナタの一つの楽章に持ち込むということは、クーラウが、それだけこのソナタを重要に考え、力を注いだということが見て取れる。


第二楽章の冒頭からピアノパートが先行する。それは後の変奏がフルートを凌駕するのを約束するかの様に強い性格を主張する。それに続くテーマは、フルートの低音域の持つ地味ではあるが、人を包み込むような音色は、静かに、しかしながら何よりも人の心を打つ。第二変奏はピアノの独壇場で、後にリストが彼のヴァイオリン協奏曲より、パガニーニスタイルに書き直したあの有名な「カンパネラ」を想起させる。続く第四変奏はフルートパートにそのスタイルを譲っている。第六変奏はクーラウが好んで使った三分割の方法を用い、続く第七変奏と共に、前後に続く変奏であって不安定なリズムの安定感を求め、正確に拍に刻まれる速い部分の橋渡しをする。第八変奏ではこの楽章の悼尾を飾るにふさわしく、めまぐるしく動くフルートパートの激情の後再び“哀しみ”の旋律は厳粛な八分の六拍子に戻り、静かにこの楽章を閉じる。


終楽章のテーマは、ベートーヴェンの「管楽器とピアノの為の五重奏曲Op.16」の終楽章と調性、拍子とも酷似している。そしてこの五重奏曲は1810年、クーラウがコペンハーゲンでのデビューで、実際に演奏し、楽しんだものである。楽章の中盤で、突如、なだらかな優美な旋律が現れる。常に穏やかに秘めやかに、淡められるだけ淡められた詠嘆の旋律の中に、解き難いクーラウの魂の世界の秘儀を、少し覗かせる官能の吐息を感ぜずにはいられない。クーラウの他の作品にも、しばしばこの様な部分が見られるが、楽曲中に突然挿入された異質な空間、私も、クーラウの作品を通して勉強していなかった時には、余り必要のない部分と思いつつ、気にも留めていなかった部分が、全ソナタを研究してみると、そうではない空間の拡がりに気付かされた。この部分は、彼のある一面を現わしていて、それはごく親しい友人にだけ理解できる喜びを、ここに秘めやかに自分の宇宙に向かつてのみ無限に増殖し、外界に向かっては境界線を引き、あってはならない青春を、あるべくもない場所に追い求め続けねばならない宿命と戦うクーラウの魂を現代の我々が見る時、クーラウが毅然たる態度で、部外者が理解できるのならば理解してみろという姿勢と、人間には弱い者であるという自覚の上に立ち、その哀しみを誰かと分担して背負いたいという切望とが感じられる。308小節より続くフルートパートの3点ハ音は、何度も繰り返される溜息の様な嘆きのモチーフをピアノパートも加わりながら、まるで人生を諦めてしまう様に繰り返す。350小節にも及ぶこのロンドが変ホ長調で終わつているとしても、どこか哀しさは拭い去ることは出来ない。

2015年9月 解説 田上紳

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