フルート五重奏 ホ長調 Op.51 no.2

作品51は3曲の大規模な作品で、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ2、チェロという変わった楽器編成により出来ているが、フルートソナタと言っても差し支えない。というか、フルートニ重奏Op.39の3曲に始まり、このOp.51の3曲、そしてOp.57の3曲を経過し、はじめて、フルートソナタOp.64の誕生となるのではなかろうか。そのことは、クーラウはOp.39、Op.51、Op.57の作品群で、フルート奏者に最大限の技術面の高さを要求し続けた。それはあたかも、孤軍奮闘するクーラウが難しいパッセージを克服しさえすれば、己の孤独から脱出できるかもしれないという愚かな試みであったが、結果として当然のことではあるが、この作品群の技術的難易度は、全フルート作品中でずば抜けている。今夜演奏するOp.51 No.2は1823年、N.Simrockにより出版されている。演奏時間がほぼ30分近い大曲で、1828年には弦楽合奏部分のピアノ編曲版もA.Keypenによりなされている。

Adagioの序奏部を持つ第一楽章は、ホ長調の重厚な枠組みの中で、ヴァイオリンの優雅な動きをフルートが引き継ぐ。40小節もの長い序奏の後、ホ短調のせき込んだフルートの主張が始まる。それは、クーラウはもとより、同時代の作曲家が好んで使った3連符の動きを予見する。この3連符の連なりを私は人生の前進する力の様に思った。唐突な話ではあるが、人間が自分の足のみで活動していた時代から、馬を利用した時代、その後の鉄道や車を使える様になった生活、その変遷を考えた時、クーラウの時代は、ちようど馬が切り離せない時代であったのではないか。

解りやすい例を挙げると、シューベルトのあの有名な歌曲、“Erlkёnig(魔王)D.328詩はゲーテ”のピアノパートの右手部分は最初から最後まで3連符で馬の走っている様を表現している。だからと言って、馬という移動手段から鉄道・飛行機など進歩した様に見える我々の時代であっても、ゲーテのこの詩が暗示している様に、我々も、どうしようもない大きな力に流されているに過ぎないのかもしれない。その様な事は、クーラウが彼の作品でいつも主張している様に、生かされている流れに従い、流されながらどれだけ自分の居心地良い生活を見つけるため進み続けなければというメッセージに受け取れる。この楽章はその様にして終わる。

第二楽章はメヌエットートリオI―メヌエットートリオII―メヌエットーコーダで終わる。同じ旋律を何度も繰り返す事で、自分の主張を聴く人に理解させようという気持ちが共感できる。

第三楽章は、ゆったりしたAndanteでハ長調という調整からもわかる様に、安定した充実感を聴く人に与える。クーラウの緩徐楽章としてOp.85に匹敵する大きさを持ち、106小節もの長さで作られている。その気持ちは限りなくやさしく、どこか切ない。

第四楽章は、この大曲を締めくくるにふさわしい大規模な構成で、Allegroで駆けめぐるフルートの旋律でさえ、どこか寂しさを拭い切れない。その寂しさが頂点に達した時、異質の静けさが現れる。その和声上に重なるフルートのメロディーはクーラウの癒す事の出来ない孤独、疎外感が、どこかしっくりしないリズムで表現されている。それは又、現実の世界と死後の世界の融合を暗示するのかもしれない。再び始めのテーマが戻ってくると、この大曲を印象づける華やかな技巧を存分に味わわせて曲は終わる。

解説 田上紳

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