フルート五重奏 ニ長調 Op.51 no.1

作品51の1はフルート、ヴァイオリン、ヴィオラ2、チェロという変則的な楽器編成により成り立っている。又、作品51は3曲より成り、すべてこの編成で、演奏時間がほぼ30分近い大曲ばかり)でクーラウの並々ならぬ意気込みが感じられる。1822年に作曲され、1828年には、弦楽合奏部分のピアノ編成版もA.Keypenによりなされている。

第一楽章は短い弦の導入部分から、未知の世界を知る喜びに溢れ、思わずその音の方へ体を動かしたくなる。それに答える様にフルートがテーマを歌いあげると、クーラウの直線的で真摯な態度で未来に向けて建設的な空間が拡がっている。

第二楽章メヌエットは弦が力強く自信に溢れ王道を主張する。フルートはあたかも勢い付く馬を止めるかのごとく、柔らかいメロディーで調整する。トリオ部分ではフルートにチェロが一小節遅れて同じリズムを奏し、不思議な一体感を醸し出す。

第三楽章は、まさにフルートソナタの緩徐楽章特有のつくりで、フルーティストは、自身の内面的
な精神世界を、クーラウの心の揺らぎ、風景を開じこめられた音符の並び方の中に表現する最高のステージであるが、この曲(作品51の1)には、クーラウ特有の孤独、絶望という様な語句にはあてはまらない。この事は極めて珍しい事で、Op.51 No.2ではクーラウの孤独が強く押し出された作品になっているのに、不思議に思える。

第四楽章のフィナーレも、最終的には明るく、前向きで、正面から人生と対峙し、正当な生き方
を良しとする古典派的に整理し、作曲された形と内容を持っている。ここには、クーラウ特有の突
然割り込んで来る、主題から遠く離れてしまった様な自分だけの世界、そういう楽節はこの作品51
の1には見えない。

しかし、私は、この曲を何度となく練習して行くうちに、この終楽章の前半部分で重要な役割を持つシンコペーションのリズムが何を表しているのか理解できた。このどこか危うさを秘めたシンコペーションのリズムこそは、クーラウの隠したくても隠せない誰にも心を許せない寂しさ、孤独感で、自分自身でさえ信じる事が出来ない危うさを感じつつ、八分の六拍子という二拍子のリズムがあたかも人生の歩みを止める訳にはいかず、とにかく前に足を出さねばならない、そういう強制力が二拍子に秘められてはいないだろうか。この曲を完成させた30代半ばになったクーラウの表面上の成功は、この作品に現れた真のエンターティナーのものとして充分に皆を満足させ、楽しませる作品にまとめ上げた、にもかかわらず、私は、クーラウの孤独をこんなところにも見てしまう。

解説 田上紳

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