2本のフルートとピアノのためのトリオ ト長調 Op.119

この作品119は、彼の最晩年に出版されている(Simrock)。1732年には、クーラウが安住の場としてリュンビーに、やっとの建てた家さえも、火事で焼失してしまい、再び市内の(ニーハウン12)に居留していた。火事では、フルート作品以外は全て焼き尽くされてしまった。最大の損失と言われているものは、ピアノ協奏曲第二番というものがあったらしい。幸いなことに、彼の殆んどの作品は、19世紀の初めから半ばにかけて、初版あるいは2版、3版程度出版されているので、現在でも、ピアノ協奏曲第二番以外は、コペンハーゲンの王立図書館、オーフスの国立図書館に出版物と
して保存されている。

横道にそれてしまったが、この作品119の作られた時期には、1830年1月に父親を、11月には母親をなくし、冬にはクーラウ自身が足の痛風に悩まされ、その後、不幸が追い打ちをかける様に、1831年2月5日、火事という全てを無にする残酷な運命が待っていた。若いうちから己の孤独感を意識していたクーラウにとってどれ程の打撃であつたことか。この作品119の作曲年は明らかにはされていないが、この火事より後に作曲され、1831年12月10日付コペンハーゲンからロンドンの出版社に出している手紙にこの作品について書いてあるので、おそらくその間に書かれたと推察できる。この様な状況下で、繊細な神経を持つクーラウには、もう襲いかかる病魔をはね返す気力は失せていたことだろう。果たしてクーラウは1832年3月12日、現在でいえば結核のような感染症で亡くなっている。

そんな中で、このトリオの第一楽章の冒頭部分の何とすがすがしい田園の一日が始まる期待感と、また朝を迎えられた喜び、それが何の街いもなく自然体で現される。 もう、この曲では、フルートソナタで執拗に繰り返された、突然の挿入句的な部分、ごく個人的な感情を当事者同士しか解らない会話で話している部分は姿を消し、より古典的な様式の中に二本のフルートとピアノが、合致して一体化するのではなく、一つ一つの楽器が個を尊重して、この集合体としてのトリオにまとめられている。

第二楽章は中期によくあったそれの様には、今はもう神に祈る必然性を感じない。息をするがごとく、自然に自己の過去にどこまでも湖って行く時、それは殊更、夢想的でいつまでも自己の根源に街径する心地良さは無限の広がりを見せる。

現実に戻された時、第三楽章は幾度となくクーラウの人生に課せられる試練は、彼の精神も肉体をも疲弊する様を楽しむかのように次々に襲つてくる。哀しみのロンドとでもいうべきこの楽章は、もう彼の不幸をオブラートに包みはしない。自分はこれ程の哀しみという試練が繰り返されて来た。今までは、取りつくろい、それも人生だと平気を装ってきた。でももうイヤだ。己の本当の姿を見せて何が悪いか。かつては愛する人もいた。その人が自分を愛してくれたかもしれない。だが今にして思えば、それはただの幻想にすぎなかった。人生は孤独だった。それをごまかすために、家族といわれいている父、母、妹などドイツから呼び寄せた。家族という形を整えるために大きな家も創った。だが、相次いで、父も死んだ、母も死んだ。やっと作った家も火事で焼失した。やはり人間とは、どうしても孤独というものから抜け出すことは不可能なのだ。これだけ波の様に、次から次へと押し寄せる困難な事態を、あるがままに受け入れ、強い波には流されるしかないのだ。この曲でクーラウは、己の人生を孤独と対決して何かを見つけ出そうとは思わない。嵐に巻き込まれたら、その流れに身を任せれば良いのだという一つの結論を見い出した様な作品だと私は思う。

解説 田上紳

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