クーラウのフルートソナタについて

フリードリッヒ・クーラウは、1786年ドイツのウェルツェンで生まれ、若くしてデンマークに帰化し、1832年コペンハーゲンで没しています。現在ではデンマークの作曲家として、又、フルートのベートーヴエンという呼ばれ方もされている程、フルート曲に重要な作品を残しました。

なかでも、フルートソナタはベートーヴェンのピアノソナタにも匹敵する程の音楽性を持ち、精神的な充実感を聴く人に与えてくれます。

彼のフルートソナタのいくつかと真剣に向かい合って取り組んだ時、他の作曲家にはない人間の無力感、埋める事のできない深い孤独、もう一方では素直に自然を愛でる気持、風の声、波の音、さまざまな事象が耳元で小声でささやいてくれます。

彼の作品には、絶望的な孤独感が全体を支配しながら何故か人間的なつながりが感じられます。
人と人とのもつれ合う感情の起伏を確かめ、であるからこそ、人間は孤独であり、人の運命も自分と言う小さな個は、社会という大きな器の時どきの流れに従わざるを得ず、人には見えないもっと大きな動きに個としての自分は翻弄されるにまかせるしかないと主張している様に、私には思えます。

ベートーヴェンの音楽には、個人が定められた運命であるならば、あらゆる障害を乗り越え、目的達成の為に修練し、努力し、自身の不利益は自ずから切り開き、栄光と神への感謝を高らかにうたい上げている様なところがあります。


勝ち敗けの問題ではないのですが、仮りに、ベートーヴェンの音楽を“勝者の論理”とすれば、あれ程までにベートーヴェンを尊敬し、ベートーヴェンの様になりたかったクーラウの作った世界は、正反対の“敗者の論理”の上に成り立っている様に思われます。


かつて、我々が出会ってきた大音楽家たちは、様々な苦労をし、大変な逆境にありながら名を成し、大いなるものを残してきた。それらは全て、自身の運命を切り開いて、成せば成るという“勝者の論理”の上に成り立ってきています。

しかし、人間には、その様な幸運な人だけがいるわけではありません。努力しても酬われない人もいます。働いても働いても貧乏な人もいます。人間という個がいかに頑張ろうとも、大きな波に飲み込まれる事は数多くある事です。今こそ、“勝者の論理”と反対側の考えを主張してかまわないのではないだろうか。この様に考える時、クーラウの作品はまさに、今取り上げねばならないと強く思われます。

クーラウのフルートソナタと取り組んだ人ならば、自身の生き方に何か違った面を見い出すに違いないでしょう。それは、他人の痛みを知った人は、やさしくはなれるけれど、厳しい見方をすれば、当事者をどう癒すことも出来ない無力感も同時に発見してしまうからで、その事は最終的には人間は一人でしかないという事を認識させられるからです。言葉足らずではありますが、簡単に言うと、前述の様な考え方の出来ない人(人間は一人ではない、とか他人を癒すことが出来る、とか運命は変えられる。などと思える人々)は、クーラウのフルートソナタに取り組んでも意味はないでしょう。


その様な方は、ベートーヴェンのビアノソナタに取り組めば良いと思うし、それはそれで、人生の軌跡の奇蹟が認識せられ非常に意義深い人生を送れることは確かでありましょう。

平成14年 田上紳

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