クーラウとは

クーラウについて
(Daniel) Friedrich (Rudolph) Kuhlau 1786-1832

1786年9月11日、北ドイツのハノーバー近くのユルツェンで生まれる。祖父はオーボエ奏者、伯父ヨハン・ダニエル・クーラウはオルガン奏者、父ヨハン・クーラウは軍楽隊に属し、父の勤務の関係で、家族はリューネブルクやブルンスヴィッグなどに転居し、その後ハンブルクに移った。

幼年時代にクーラウは、ある事故により片目を失い、また、長い間病気に苦しんだ。その間にクラヴィーアを学ぶことを決意し、リューネブルクでオルガン奏者、アーレンボステルにクラヴィーアを学んで音楽家になった。

間もなく彼は、ハンブルクでピアノを教えながら、C.P.E.バッハやクリンベルガーに学んだ聖キャサリーネ協会のカントル、C.F.G.シュベンケと親しくなり、ピアノと作曲技法を学んだ。また、シュベンケはクーラウをハンブルクの音楽界の中枢に紹介した。

クーラウは最初の公開のリサイタルを1808年に開き、まもなく自分の作曲したピアノ・ソナタその他の作品の楽譜を出版し、ハンブルクで広く知られるようになった。

1810年、クーラウは徴兵制度で、ナポレオン軍に兵隊として編入される恐れが出てきたので、それを避けるためにコペンハーゲンに移住した。コペンハーゲンでの最初の数か月は、まだ捕らえられる可能性があるという恐れから、カスハール・マイヤーという偽名を使っていたが、やがて本名に戻り、コペンハーゲンの王立劇場で1811年1月に自分の作品による演奏会を開き、好評を得た結果、女王の前で演奏を命じられ、その年の12月にはデンマークの宮廷付きピアニストに任命され、次第に名声を博していった。彼の人気は彼に、この国に帰化する事を決意させた。

ピアニストとしてのクーラウは、自作の演奏ばかりでなく、当時コペンハーゲンあたりではよく知られていなかったベートーヴェンやほかの作曲家の作品を紹介した。自作には、聴衆を喜ばすために、よく知られたオペラのアリアによる華やかな幻想曲や変奏曲を書いて披露した。

また、スカンジナヴィア中に彼のピアニストとしての名は知れ渡ったが、特にスウェーデンでは人気があった。1815年、ストックホルムに数回訪れ、演奏会を開き、スウェーデンの皇室から大衆に至るまで広く彼の名を知らしめた。

一方、1813年、彼は宮廷音楽家のメンバーに任命され、1814年5月初演、オーレンシュレーガーと協力して最初のジングシュピーレの成功を見る。彼は王立劇場の合唱監督をつとめ、以後作品を発表し続けた。クーラウの劇場音楽と声楽曲は主としてフランスオペラの影響を受けているが、初期ドイツロマン派やワイズのデンマーク芸術歌曲の影響も見逃せない。

彼のオペラは、パェール、アルビーニ、ヴェーバー、ボアェルデュー、ロッシーニなどによって表現され指し示されたのと同様に、後のヨーロッパのオペラの傾向を性格づけたようなところが見受けられる。クーラウの最も重要な劇場作品は、ハイベーアのデンマークロマン主義の代表作で1828年に初演された「妖精の丘」で、以後、王立劇場のレパートリーとして度々上演された。

声楽曲の作曲家としてのクーラウはヴァイゼ程は有名でなかったが、インゲマン、エーレンシュレーガー、ゴールドベルクを始めとする詩人や、他にドイツの詩人達の詩による歌曲を多数作曲している。また、コペンハーゲンの学生たちにドイツ語とデンマーク語のテキストによる男声のカルテットなどもあり、当時人気のあった歌を出版する仕事にも携わった。

クーラウという人はおそらく、ピアノ音楽、いや、ソナチネの作曲者として最も良く知られているだろう。その事は、彼はソナチネのような、やさしいピアノ曲しか作曲しなかった作曲家として受け入れられてきている。確かに現在、ソナチネアルバム1巻にOp.20の3曲、Op.55の3曲、2巻にはOp.55の3曲、Op.88の2曲があり、また、比較的入手しやすい楽譜にしても、Op.59、Op.60、Op.44、Op.66のいずれもがソナチネの名称がつけられている。

しかし、彼の本来のピアノ作品は、上記のような弾きやすく、教育的見地から不変の価値のあるソナチネばかりではなく、その楽器の性能を充分に理解し、大衆性に富み、技巧が比較的平易なものから、難しく華麗な演奏効果のある作品にまで、彼の全作品の大半はピアノのために作曲されている。

彼のこのジャンルで最も重要な作品は、ベートーヴェンの初期のピアノ協奏曲を思い起こさせるOp.7のピアノ協奏曲である。この曲は発表当時から人気があり、何度も彼の演奏会で再演された。作風の中にベートーヴェン風の感じが漂うのも当然な事に、クーラウはベートーヴェンを尊敬し、彼の音楽を研究し、作曲家としてのデンマークの先輩、ワイズの作風をより近代的に発展させたばかりでなく、ピアニストとしてベートーヴェンの作品を紹介した事にも非常に意義深いものがある。

しかし、クーラウの演奏活動による収入は、彼の生活にとって充分ではなく、当時、国王もフルートを好んでいたようで、フルートの作品の需要が多く、その要求に答え、自身の収入のためにも多くのフルート作品が作曲された。

20年ほど前(注2000年に執筆)の資料によるとクーラウはフルーティストであるという記述が多いが、彼はこの楽器をほとんど演奏できなかったらしい。ただ父からまず最初にフルートを学んだという記述もあるが、いずれにしても彼の作曲した作品を演奏できるほどの技術は持っていなかったようである。

大作曲家クーラウの仕事の一分野として、彼の自然な直感と、王立劇場の友人のフルーティストの助力を得て、フルートの作品を次々と完成させたのではないかと思っている。その結果フルートのベートーヴェンと呼ばれるほど、フルート音楽に占める彼の役割は大きい。かつて、クーラウの作品は、華麗なサロン風音楽とみなされがちであったが、フルート五重奏Op.51やフルート・ソナタOp.69などに見られる彼の音楽の真面目さ、人生に対する真剣な眼差しは、彼の全作品の中でも取り上げねばならないものである。

クーラウはコペンハーゲンの郊外に大きな邸宅を構えて住んでいたが、彼は終生独身で身軽な身であったので、各地への演奏旅行を盛んに行った。

彼はウイーンには1821年と1825年に訪れて、1825年の訪問の際はベートーヴェンと親しく交わっている。クーラウにとってベートーヴェンは特別な人で、彼の音楽の精神性を追求し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタに匹敵する作品を残そうと、目標にし、努力した結果、数々のフルート・ソナタに彼の最高傑作が生まれた。

1828年クーラウは名誉教授となったが、彼の晩年は、彼の生涯において辛い事が多かった。それは、両親や妹などをドイツから引き取って住んでいた大きな邸宅を1831年2月5日の火事で焼失したり、父親の死などという不幸であった。邸宅の焼失は、2番目のピアノ協奏曲の手原稿を含めて、和声学や、およそ半分にもあたる楽譜を焼失してしまい、クーラウを研究するに役立つ貴重な資料などを殆ど失ってしまった。その火事の心痛などによって胸部疾患が悪化し、回復しないまま、1832年3月12日、コペンハーゲンで45年の生涯を閉じた。

生前、彼は多くの若い作曲家を直接教え、影響を与えたばかりでなく、後のデンマークの音楽にも少なからぬ影響を及ぼした。

解説 田上 紳 (2000年 執筆)

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